昭和57年03月10日 月次祭



 実は今日テレビを見せて頂いとりましたら、長谷川しんのシリーズがあっておりました。長谷川しんと言う人は、びょうしつはめりけんものがすっとここへ上をですね、ラストシーンがいいね、今日の私例の所だけ見せてもろうたんですが、好きな女の方が亡くなられた。そして自分はこうゆう靄の中にこう消えて行く様に旅立っていく、そして説明に先はさだかではないけれども、江戸に旅立ったというて言う様なラストシーンでした。まぁみておってあのう本当にこうスキットしたまっぁ映画であります。
 かというとこれは私が夕食の時にいつも見ておりますが、今東山の金さんがあっとります道中ですね。これなんかはもう必ずまぁ見とって分る、はぁあれが結局ハッピーエンドに終わると言うのですね。この様にハッピーエンドに終わる。そっでまぁやはりまぁ大将もんで一杯にけいきだけれども、その映画のま芸術価値と言うのは、長谷川しんが書いた様なそのう最後はどこ行くか分からないと、言った様なねのがいいのであって、ハッピーエンドに終わるのは程度の低い映画だ、お芝居だと言う風にいう向きがございます。
 また芸術的価値と言うたらそうかも知れませんですね。ところがね信心でもねそういう傾向が最近あるんです。おかげ話はするなとね。信心を語れと。ならその信心を語っておる人が本当に、さぁ素晴らしい成程おお話をするんですけれども、内容が無いから深さがないから相手に感銘、人におかげになる様な感銘が与えられない。内容のある人がお話をすると、それはおとぎ話の様なお話の中からでも、どっしりとしたはぁ成程そうだとおかげのいただけれるものが、こう響いて行くんですね。
 問題は内容です。なら私はそのう成程おかげおかげ、御利益御利益と言う事がいいと言う事じゃないけれども、例えばお道の信心はそれこそ夢にも思わなかったような、おかげの展開になってこなければ、もう絶対にハッピーエンドに終わる様な信心でなからなければ、私は本当な事じゃないというのです。思うのです。ある偉らぁいその方は教会もなさった事がある方のお話を、久留米でいつか聞いた事があります。
 ちょうど戦後の事です、大変気の毒な子供を抱えてそのう親ひとり子一人のせいかつをして、穏やかからある日先生を尋ねられた。もう本当に死んだ方がましと言う様なお話の模様を聞かれて、お話をなさった。それから本当に生き生きとして元気づかれた。それからまた3年後にその夫人と会われた。その時にはもうそういう不平不足ではなくて、ま信心をあれからお導きを頂いて、信心に寄るおかげを頂いて、まぁ信心生活が出来ておると言う事でった。
 けれども身なりは3年前とさほどに変わらなかったと、だから難儀と言う者はあろうけれども、内容がまぁ変った。なかなか良い話の様にあれね。けれども3年前には死ぬほどの難儀とか持っておったけれども、3年後にはお導きを頂いてお話を頂いて、心が開けて来て有り難うならせて頂いたら、その有り難いのに子供はかく成長しました、家はこんなに美しゅうなりましたおかげでお金には不自由しませんという、それが何事もなければ私は駄目だと思うんです。
 金光様の信心ではね、映画のシーンいわゆるラストシーンが良いのは、そういうハッピーエンドに終わるのではなくて、3年前にも3年後も同じであった、そこのところ非常に強調しとるそのかのようにして3年後にあった時に、心の状態が助かって行かりょうるけれども、別になら身なりが良くなておると言う事ではなかったということが、まぁ素晴らしいまぁラストシーンとして語られたんでしょうねぇ。けども私はそうじゃいかんと思う。そういう傾向があるんです今んとこお道の信心には。
 3年後にゃあんときにゃっもう本当に死ぬか生きるかと言う難儀でしたけれども、先生からあのようなお話を頂いてお導きを頂いて、近所の教会にお参りをさして頂いとりますが、一年一年かくおかげを頂いておりますという、私はそのうおかげが繋がっていかなければね、金光様の信心は値打ちはないと思うんです。お願をおする、願いが成就する。というのは本当の信心のおかげじゃない。願うけれども願うそれこそ願ってもね誰でも、右と願えば左、左と願えば右と言う様な状態の中に。
 神愛を分からしてもろうておかげを頂いてまいりますと、それこそ夢にも思わなかったおかげの展開になって来る。そういうおかげこそが私しゃ本当のおかげであって、そういういうならば素晴らしいおかげ話が出来るような、信心を頂きたい。そういう信心とはどういう信心を言うのだろうかと、まぁそこに合楽理念にもとづきゃほんとうなんですけれども、今日昨日でしたか月例祭のお供えを持って、行橋支部の方達が皆んなで参ってまいりました。
 支部長がお届けを致しておりましたら、お願いしてもお願いしてもお願い通りにならない、まぁ心が暗くなるように思うけれども、ここは合楽理念にもとずいて合楽理念にもとずいた生き方で、受け方で行かなければならんと、一日合楽理念に取り組ませて頂いとりますと、なるほど思う様にはなりませんですけれども、何か心にスッキリとした有り難いものが頂ける、と言うお届けをするんです。私はそれを聞いてから、ほんなことねと言うて申しました。
 合楽理念にもとずけば、言うならば願いが素晴らしいタイミングが生まれて来て、そすと充分に乗った様なおかげが現れて来ると言うのじゃなくて、反対におかげが上がらないのだけれども、合楽理念にもとずいていけば、いうなら一日を締め括った時に暗い一日ではあってもです、最後の心から本当に結構な修行をさして頂いて有り難かったと、お礼の言えれる様な心にスッキリしたものが頂けると言うのです。だから合楽理念にもとずくと言う事が大切なんです。
 そして神様にお礼をもうさせて頂いておりましたら、暗いいうならカーテンを締め切ってある部屋にそのカーテンの隙間から、それこそ一筋の光明というかね、明かりがずうぅと部屋に差してくるところを、御心眼に頂いたというお届けでした。このカーテンが取り払われる開かれる、そこには明るいおかげが受けられる。お互いが本当に明るいいうならばおかげを頂いておっても、明るいそのおかげがあまりにも過ぎたおかげでありますから、おかげをおかげと感じきらない様な事では何時まで経っても。
 いわゆる夢にも思わなかった様なおかげにはなって来ない。その暗い中にもその一筋の光の有り難さが分かって、だんだん明るくなって行く事の有り難さというものが、身をもって心からお礼が言えれると言う信心。今日も行橋の方達が参って来とりましたが、もうひないことならお婆さんです、2、3日前電話が掛かって来たんですけど、今日これにつかして頂いておかげ頂いたねぇと言うて、まぁ喜び合った事でございますけれども、ストーブの火がこのエプロンかけて前掛けをすめらかしとった。
 その前掛けに火が着いた。そぉしてもうとれんもんだからこんどは、エプロンついたエプロンがずうぅっとみんな燃えしもうちから、上の方へこうここの髪が少し焼けるぐらいにその燃え上がった。この辺ちょっこっとばかりこうして焼けどをしましたけれども、おかげで本当に生きながら火葬になるところを、おかげを頂いて助けて頂いたという、そのお婆さんがもう芯からおかげを頂いたというお礼のお届けがございました。
 だから「お婆さんあのねもう毎日毎日がね。そういう奇蹟的なおかげを頂いて、信心をすれば目に見えるおかげより目に見えんおかげが多いと仰るが、目に見えん所にどのくらい今日の平穏無事であったと言う事が、おかげであるのか神様の御守護であるのか、合楽の祈りの中にあるから今日もこういうおかあげを頂いたんだと、実感できるようなならなければならない。」その言うならば焼け死ぬところを焼けしなんですんだと言う事だけが有り難いのじゃない。
 信心が段々深くなって行くと言う事は、そこが分かって行く事じゃないでしょうかね。今までおかげであるこれもおかげであると思いきらなかったところを、おかげと実感させてもらう。お神様の信心の内容と言うものがです、本当に有り難いというものと、勿体無いという心が心の中に、いよいよ広く深くなって行く事だと思います。それにはねただ有り難いというのではなくて、その有り難いその勿体無い信心できませんのにかくまでのおかげを頂いて勿体無い。
 その勿体無いと思う心が神恩報謝の信心生活に入って行かなけれbならない。神恩報謝とはどう言う事なんだ、今日熊本の本村さんがおれんのでみえた、3、4日前なんちゅうか熊本で共励会なんちいよったかね、2日ほんならもうやっぱ1週間前だった訳ですけれど、それがあちらの共励会の朝主人から電話が掛かって来たから、あのうまかなり難しかろうごと急に悪くなりました。直お願いをして下さいという。でお願いをさして貰った。それから夕方からこちらから先生方共励会まいります。
 と言ったらもう本人が御用が出来ようるくらいにおかげを頂いたと、朝方主人がお礼においでられておった、というのは一生懸命田植えをしておる、そこで田植えのお知らせお頂くとやはり誰かお国替えをされると言った様なふうに頂くとですね。ところがそのう田植えの最後のところにもうそれこそもう、ものすごく大きな檜が一本だぁっと立っちょる、だからまぁ檜と言う事は神様の木といわれるから、いうならば合楽一本とこうされた方なんですから。
 本当に神様一心神様一本におすがりして、こういう無い命と言う様な大難が来とるのだけれども、一心に縋っておかげを受けよということでおかげを受けたわけです。ところがそれが昨日一昨日でしたか、お礼に出て参りましたあれからどうも躰が本当じゃありません。医者に掛かったらこの入院せんならんところ治療の事を言われる。入院も良かろう治療も良かろう、けれどもね神様に例えばもう本当に生命がない様なお報せを頂いておったけれども、この一辺もしなずに縋れとお知らせを頂いておったから。
 ここに一心発起をしなければ駄目だよっと私。薬も良かろう医者にかかることも良かろう。と言うてその人の前に私はお届けをさせて頂いた人の話をさせてもらった。あんたの前に林さんと言う方がねお届けされてね、15年の記念祭に向って、いうなら御造営費の完納と言う事が、毎朝朝の御祈念にお参りをすると、総代さん方からお届けがある。あれを聞かせて頂きながら一心発起した。御造営のかずのおかげを頂くまでには、化粧品も買いません布一寸も買いませんと言う様な修行を始めた。
 そうしてもう本当に出来ませんけれども、出来るだけの御造営費のおかげを頂きたいと願いをさして頂いたら、思いもかけないお繰り合わせと、思いもかけない言うならばおかげが頂けると言うて、お供えに見えたお話をさしてもらった。ぜんしゃくのいうなら準備をさして貰うでも、さぁ今日はよねくら魚だと言う時でも、今日はあれを拾ったからもうお野菜だけでと言う風にして、そう言う風にしてした時ほど、家族の者が今日はお菜が美味しかったというてその皆んな言うてくれます。
 不思議な働きが起こっております。私が布1寸買いませんと言うことにしましたら、不思議な思いもかけないところから、着物を頂くと言う様なはたらきが起こておりますと言う、お届けがあったが、松村さんおまいりはしてきよる、お参りのためにはお供え御初穂もおそなえしょるけれども、なら御造営なら御造営のことにどれだけの事をあんたが思うておるかっと。きょうはねその前に秋山さんがお届けされたが、御造営費の事をお届けさして頂いたら、出来んと言う事じゃないけれども。
 思いに思いをついて重ねたというお知らせを頂いたお話を頂いた。もうそれから御造営御造営と思い続けさして頂いておりましたら、不思議にやはりお繰り合わせが頂けると、是も今秋山さんがお話した話だかね、松村さん一しょうかけしなきゃだめだよと、医者も良かろう薬も良かろうけれども、この1本のひがしに縋ると言う所のおかげを頂かなければ、帰り道々考えた本当に自分なお参りもしよるおかげも頂きよるけれども、一向熊本の地区にならあちらに支部の一つも頂きたいよう願いは持っておるけれども。
 お導きをするけれども助からん。助かるけれどもそのう続かない。一向支部そのまぁきょうのあたりが発展しない。このいよいよ一心発起させてもらわなと思うて、言うならばある事を一心発起させて頂いた。今日参加してもらいました、おかげであの人はそのう着付けの先生の資格を持っておる、もうこの頃から何人からも教えてくれ教えてくれと言われるので、あのう着付け教室のような事をしたい。主人の言うならば利益のところには物足りない様に、これだけは私が健康であればこそできる御用であるから。
 さしてもろうて御造営のおかげにも頂きたいという腹を決めさせて頂いたら、おかげで医者にもかからんで済みそうですと言う、今日はお礼参拝であった。先だって丸少が大会を開きますそれと青年会が大会を開きます。一日置きに言うて来たらその大会テーマを頂きたいと言うてお願いに来た。それで神様にお願いさせて頂いたら、教会と共に育とうと言う事であった。教会と共に育とう。これがなら丸少にはちったこりゃ難しかろうばってこげん頂いたからねと言うて。
 で青年会の会長さんがやって来たけれども、やっぱりおんなじ教会と共に育とうであった。教会が衰微しとるならいかんけども、教会はやはり日勝り月勝り年勝りにおかげを頂いておるのであるから、その教会の友の育たたさせて頂くと言う事はどう言う事なのかと、これもそういう御理解を頂くときある方が頂いた、そのうこう舟に一杯合楽のご信者さんが乗っておられる、自分はまだ乗られんもんだから縁に?まれてから、ぶら下がる様に質ったおると言うて。
 あんたがいの信心な結局合楽教会にぶら下がっとる信心たい。ぶら下がられるもんなきつかばってん、ぶら下がるもんもきつかばいこれじゃ。本当にそこ中に乗らなければ。と言うてまぁ申しました事でしたけれど。合楽と共に育つと言う事は、それこそ自分と言う事ももちろん大切です。じぶんも本当にハッピーエンドのおかげを頂きたいけれども、本当な意味においても、絶対ハッピーエンド的なおかげになって来る事のそのう、過程としてですね行橋の堀内さんじゃないけれども。
 願うても願うても思う様にならない、心が暗くなるようにある、けれども一日を締めくくった時に、今日も合楽理念にもとずいての一日であったと、いう事になった時にです心がスッキリとする。それこそ一筋の光明が言うならば、心の中に差し入って来る様な感じだとこう言うのである。そういう期間はね私共がね言うならば、私共が夢にも思わなかった様なおかげを頂く事のために、教会と共に育とうと言う様な信心。先ず私がおかげを頂いてそりゃ今に許したいと思って。
 もうこれこれのおかげを頂いとるこれだきゃお供えしょうと思よる、と言った様なものではなくてね。教会と共に育つそんなら教会の事が思い思われる、心の底から御造営御造営という思いを重ねていくなら、そこからせいな働きが起こって来る。そういう私はおかげを頂いて行くお互いの信心の過程の中に、2、3日前私はお夢を頂いた。ちょうど私共がまだ椛目におる様な感じである、ちょうどそのその椛目のあのうここの通りを、沢山の人が通っておるそれが見た事のある人達もその中に入っている。
 私の知っておる俳優も居る、その団長さんが井上正雄と言う、昔新派に中におりましたね、その人が団長さんである。それがちょうど私が通っていよいよ真正面のところで、一人のその人が急に苦しみだして、その井上正雄の一つひっくり返っていって、どうなるかのとこう見ただけで、まぁ皆んなが急ぐもんだから、それに構もうておれんで皆んながそれを放任して、皆んながそのまぁ旅を続けるというのか、まぁ目的地に向かって行ったわけです。
 それを私は言えの中で見ておったから、すぐあのう飛び出して行って胃の中に連れて来ました。そして御神米をお頂かせたりこう擦ってあげたりしておる内におかげを頂いた。もう涙ながらに喜んで有り難かった。でそこに幹三郎が居りましたからあのうこの一刻から遅れとるから、もうなら自動車で送ってやれ。このう追いつくところまで。と言う様なお夢であった。例えば人の親切を受けるとかその節はおかげを頂いたというときにゃ、それこそ涙の出る程に有り難い。
 知らん所で倒れた。そこに親切な人が居ってその人が介抱してくれたり助けてくれた。本当に信者の御恩は忘れませんと言うごと有り難い。お道で信心で言う真に有り難いというのはどう言う事だと思うですか。そういう時に真に有り難い本当に心から有り難い、と言うのですからやっぱし真に有り難いとのごたるけれども、これじゃないです。難儀な時に助けてもろうたらやっぱ有り難いです。
 けども真に有り難いというのは、それを介抱してあげたり御神米をあげたり、そして最後にはその人を連れから外れとるから、車で送ってやると言う様なその心が頂ける事が有り難いと、思う心が真に有り難いんだという事。親切を受けたのが有り難いんじゃなし、親切のほどこしれる事が有り難いんだと言う、それが真に有り難いんだと言う風に、まぁそん時に頂いたんですけど。自分の事自分の事と言う事じゃなくて、なら神様を中心にしするから神様も又氏子中心になって下さる。
 神様本位だから神様いうならば、氏子が神様任せなら神様は氏子任せになると仰せられますからと。3代金光様は教えておられます。だから私共の信心が言うなら教会と共に育つと言う事はね、本当に自分の事から一歩も出なかった自分の祈りの内容が、教会の事が明けても暮れても思い続けられる、御造営御造営と思い続けれれる、どうにかしてと言うならば心に工夫をさして貰う、そういう言うならばおかげの頂ける事が有り難いというのが、生れて来るのが真に有り難い。
 その真に有り難いと言うその心がね、おかげの初めと言う事に、本当のおかげの初めと言う事になるのです。これはもう合楽ではあんまりはやりませんから、皆なさんにはお話せんでいいと思うけれども、大体言うなら金光教でもそういう傾向があると言うのは、それこそ加勢はせんが加勢をしたようなすみだしを良しとする様な傾向があるのです。成程文芸的であるとか芸術的であると言う評価から言うたら、そうかも知れまっせん。合楽の場合はどうでもハピーエンドに終わらなければならないとこう言うのであるから。
 ちょっと考えると低級なごとあるけれども、そういうおかげの頂けれるその内容そのものが、育っていくと言う事である。内容そのものが有り難いのである。内容そのものが勿体無いのである。今まで気が付かなかった本当にやせじるような、かって思われる様な災難に遭ってもおかげで助かったという事が有り難いのである、有り難いのだけではなくて、そういういつも合楽にご縁を頂いておると、そういう祈りの中にいつもあるんだと、気付かせてもらう分からして貰う。
 そこにいよいよ有り難いという一日が、いわゆる神恩報謝の心が信心も出来ませんのに、勿体無いという心が育ってくる。そういう心がねいわゆる神恩報謝である。なら神恩報謝の心をなら形に現わしたらどう言う事になるかと言うと、自分本位ではなくて神様本位合楽お教会を本位という様な、思い方が育ってくると言う事。そうなるじゃなくてそう育っていくということである。
 今日或方がお参りをして見えて、まぁ大きな会社のことの支配をなさっておられる方なんです。もう最近はそれこそ皆んな立派な方ばっかりなんだけれども、いよいよのところになるともうそれこそもうそれこそ、あのう我情我欲とでも申しましょうか、それこそどろどろとしたような皆んなの心が出合うとね、その中にこっち迄が参ってしまいそうにある。こういう時にこういう中にあって、合楽理念をもってと言う風に思わせて頂いて、そういう人間の我情我欲が渦巻く様な中にあっておかげを頂きたい。
 昨日中村先生がいろいろとお知らせを頂いておる、最後のところに中村敦子先生、清水建設と言う事を頂いた。でその事を今日皆さんと一緒に共励したとこでしたけれども。清水と言うものは限りなく下から湧いて来るものである。水はお恵みとしておかげである。しかも限りなく湧いて来るおかげ、合楽建設と言う事はそういうだから、合楽建設と言うのはもう限りなく続けられる者である。
 合楽教会がある限り合楽建設と言うものは、続けられて行かなければならない。それは限りない言うならばおかげを頂いて、打ち立てられて合楽理念がなら打ち立てられていく。合楽建設が進んで行くと、それにはその限りないもの紙面の様なものを頂くために、自分の心から涌いて出て来るもの。今日もここに蘭のお供えがあっておりましたが、私の部屋にもこの前っから頂いておった。
 同んなじやっぱり洋蘭ですけどもそのう花が大きくてもうこうふっくらとして、何とち言いよったね、マリリンモンローち言うげなその葉の名前が。私はそれを聞いてからほんなことマリリンモンローちゃこげな風に、もなんちゅうかねまぁ性的魅力がなんていうかじゅうはんでしょう。もうこうそれこそあのう肉体的美のまぁ女優さんの事でしょうが、本当にその様にもうふっくらとしてね、ほんとこげな洋蘭ちゃ始めて見た、これがもう今の洋蘭のかえって最高だと。
 それが作ろうとして作るのじゃなくて、そういう品種賀まれて来る訳ですね。信心ないうなら有り難いとか、勿体無いとかと言うものが、だんだん心の中に育って、本当なものになって行くうちにです、もう思いもかけない芽が出て来る訳ですね。その芽がそれこそ( ? )ごたるとが出る訳、それがもう大変な、まぁ評価を呼ぶと言う事にもなってくるのです。
 合楽で言われる合楽理念は皆んな私の言うなら新種、今迄且てこりゃ金光教だけはない宗教界においてでもです、それこそ釈迦もキリストも解けなかったであろうと、思われる様な御理解がここで頂けておると言う事は。言うならば私の有り難き勿体無きから生れた、新種でだからそれを体得するとそれを覚えていく。ためには先ず一つ言うならば合楽理念のマスターがいる。そしてそれを実験実証さして頂いて良い事悪い事につけて、一日一日を締め括っていく時に心の中にスッキリとした心。
 それこそ暗い部屋ではあるけれども、そこに一筋の光明がずぅっとこう差し入って来る様な日々の中から、このカーテンがとり除かけられる様なおかげを頂いた時こそ、いよいよハッピーエンドに終わるおかげの世界という。いわゆる合楽理念にもとずく合楽世界が開けてくるという風に思います。どうぞ一つほらそう言う風に育って行かにゃ、私が松村なんにお話した話を、もう一辺皆さん思うて見て下さい。
 3日間のお参りの中に3日間頂いて来た御理解の中から、今日はそういう一心発起をさして頂いたという所まででしたけれども。そこからどういうおかげの展開になって来るか分かりませんが、私は合楽理念の場合は3年前にはお知らせをお導きを頂いて、信心さして頂く様になったら。3年後にゃこの様な風に変わったおかげになって来ておると言うおかげを頂かなければならない。そういうおかげは決して提供と言う事ではない。人間がいわゆる願い皆さん続けておることだ。
 しかもこの世だけではないその喜びこそがあの世にまでも持って行けると言う様な信心をね、頂いて頂きたいとにかくやはり有り難い事に一心発起する事。いよいよなんですか信徒大会も間近に迫っております。そう言う時こそいわゆる示現活動の一番良いチャンスだと思うです。ですから本当に知っておる人、知らない人にもお話をして一人でも多くの参加者がある様なお繰り合わせを願って下さい。そういう御用をさして貰うと言う事が有り難いと分かる信心を頂いて下さい。
   どうぞ。